延徳元年(1489)~元亀2年(1571)

簡単な紹介

生涯負けなしと知られ剣聖とうたわれた戦国時代の剣豪

ロケ候補地

鹿島神宮、塚原卜伝の墓、塚原卜伝の像

ストーリー

今から約500年前の戦国時代の剣豪で、常陸国鹿島に吉川家の二男として生まれ、幼名を朝孝(ともたか)といった。
5~6歳の頃、塚原城の家に養子に行き、永正(えいしょう)2年、元服した朝孝は、塚原新右衛門高幹(つかはらしんうえもんたかもと)と名乗り、第1回の廻国(かいこく)修行に出る。通説となっている「真剣の試合19度、戦場の働き37度、一度も不覚を取らず、矢傷6ヶ所以外に傷一つ受けず、立会って敵を討取ること212人」という話のほとんどを、この第1回の修行の折に経験したものと言われている。
永正15年頃、故郷の鹿島へ帰り、鹿島神宮へ千日間参籠し、ついに鹿島の大神より「心を新しくして事に当れ」との神示を頂き、高幹は、ト部の伝統の剣を伝えるという意味でト伝を号したと言われている。
70歳近くになったト伝は、自分が完成した「一(いち)の太刀(たち)」という『国に平和をもたらす剣』を伝えるべく、将軍足利義輝(あしかがよしてる)を始め、義昭(よしあき)、細川藤孝(ふじたか)、伊勢国司(いせこくし)の北畠具教(きたばたけとものり)などに指導をした。
永禄9年頃、卜伝は第3回の廻国(かいこく)を終え、鹿島へと帰った。元亀2年、平和を願った剣豪は83歳の生涯を閉じたが、その高い剣の理想から、いつしか人々は剣聖の名を献じるようになった。

主な関連人物

松本備前守政信(まつもとびぜんのかみまさのぶ)

主な文献

鹿島町史 第一巻 鹿島の歴史(鹿島町史編纂委員会・1972)